直葬だとお経はムリ?生活保護の葬儀でお金をかけず読経してもらう方法

直葬でもお坊さんに来て読経してもらう場合、お布施(場合によってはお車代・お膳料なども)や戒名料は自己負担となります。

経済的な理由で直葬を選ばれる方の中には、

お経くらいは読んでもらいたい

なにかしらの儀式をして見送ってあげたい

といったお気持ちになる方もいらっしゃることと思います。

そんな希望も持つ方の手助けになればと思い、『直葬にお坊さんを呼んだ場合の平均価格』を調べてみました。

いずれも数万円単位のお話しとなります。そのうえで、『その数万円が苦しい…』と思われる方に提案したい

「おとむらい牧師隊」(キリスト教の牧師をボランティアで派遣する活動)

についてご紹介させていただきます。

この記事は「おとむらい牧師隊」サポーター 上坂かすが が作成いたしました。

直葬にお坊さんを呼んだ場合3.5万~10万円

直葬のお布施の相場は、5万円から10万円ほどです。直葬でも「戒名を付けてほしい」と希望するなら、相場はぐっと上がり、15万円から20万円ほどになります。

直葬(火葬式)でお経は必要?お経の必要性、僧侶を呼ぶ方法とその相場「お葬式のいろは」より

と、比較サイトにあるように、これくらいが目安のようです。具体的に全国展開している「直葬にお坊さんを派遣するサービス」のお値段を比べてみたのでそれも参考にしてみてください。(2019年調べ)

サービス名お坊さん便
涙そうそう
小さなお葬式直葬センター 終楽
価格帯3万5千円~(戒名料は別途2万~)4万5千円~(全国対応・心付け・お車代・御膳料・戒名込み) 5.5万(15万~の式施行の場合) 4.5万円

ということで、直葬のお布施の相場は4万5千~6万円、もしくは10万円といったところでしょうか。

正直、その数万円が苦しい… でも最期のお見送りはなにかしらの儀式をして見送りたいと思うのは贅沢なんだろうか…

そんなこと思われる方に、こんな提案があります。それが「キリスト教の牧師を呼ぶ」ということです。

『キリスト教のお坊さん』(牧師)という選択肢を

「直葬を選ぶ人が増えている」というニュースが折に触れて話題になる時代になりました。そういったニュースを受けると、キリスト教の牧師にはこういう人意見を出す人が少なくありません。

式にお金かけなくていいし自分たちに謝儀もいらない。ただ、許されるなら一緒に祈らせてほしい 。

それはおそらく「キリスト教」の持つ人間観が影響していると考えられます。気になる方は追ってカンタンに説明するので、よければ読み進めてください。

福岡・広島エリアでの直葬の場合には、NPO法人「おとむらい牧師隊」にご連絡ください。福岡・広島ではない方は、お近くの教会に連絡してみてください。

NPO法人「おとむらい牧師隊」では、

火葬場で共にお祈りさせていただきます。

ご遺族様さえよろしければ火葬の待ち時間(1.5時間~3時間)を共に過ごし、お骨上げもご一緒させていただきます。

※交通費を補助して頂けると助かりますが、ご無理のない範囲でけっこうです。
※式はあくまでキリスト教式(お祈りや、聖書に基づいた魂のお話し)で行うこととなります。ご了承ください。

さまざまな事情で公にはできない場合も、「キリスト教の牧師」にお願いするという選択肢を入れていただけると嬉しいです。

なぜ牧師にはお布施が要らないの?

ここからは「なぜキリスト教の牧師はボランティアで駆けつけられるのか?」というお話しをもう少しだけ掘り下げてみたいと思います。興味のある方だけご覧ください。

現代日本の「お寺」と「キリスト教会」の収入のタイミングの違い

お坊さんにとって欠かせない大事な仕事は檀家への葬祭関連です。法事・葬儀・年行事が主たる内容です。

(引用:井上 暉堂著「イラスト図解お寺の仕組み」p.30より)

とあるように、現代の日本仏教では、お坊さんのおもな収入源は『お葬式や法事の時にいただくお布施』となっています。

また、仏教の「お布施」は、その行為そのものが悟りにつながるといった考え方があります。

お布施は悟りへの第一歩(施論、戒論、生天論)
お布施で自我の殻を破る
お布施の功徳が天界や悟りへの準備となる
お布施は修行です(布施波羅蜜)
お布施で煩悩に克つ
お布施にも智慧が大事

引用:藤本晃著 「お布施ってなに?経典に学ぶお布施の話し」pp.35~65見出しより

とあるように、仏教教義の中ではお布施は「お坊さんへのお礼」という考え方にとどまらないものなのです。そういった点から、お坊さんは「無償で読経しに行きます」とはカンタンに言えない事情を持っているのだと理解できます。

一方でキリスト教は、毎週日曜日に礼拝やミサが行われ、信徒の多くはそこに集います。

そういったタイミングで教会に集まり、その教会の働きを支えるために捧げものとして献金をしています。

その中から会堂の維持費や水道光熱費・牧師のお給料が支払われますし、それらは伝道活動費用として使用されることもあります。そのような背景から、キリスト教牧師は葬儀からの収入を特別に気にする必要がありません。

また、キリスト教は教義的にも「修行により悟りを開く」「徳を積むことがまわりまわって自分のためになる」といった考えをしません。ここでも、葬儀の場でお金をいただく必然性を持っていないのです。

(もし「じゃあキリスト教には何が必要なの?」などといった疑問を持たれた方は、ぜひ教会の牧師にお尋ねください。ここでの解説は割愛させていただきます)

現代日本の「お寺」と「キリスト教会」は誰のものか、という意識の違い

また、日本の寺院の制度として「寺は檀信徒のもの」という意識が強くあります。

(これは奥田知志という牧師の「もしも 宗教施設の1割が困窮者の窓口になったとしたら」というNOTEに対しての、宗教ジャーナリスト小川寛大氏のTweetです)

このため、仮にお坊さんのなかに「お金は要らないが葬儀にかけつけたい」と思われる方がいたとしても、うまく動けないのが日本のお寺の現実です。

日本のキリスト教会も、確かに檀家制度のようなシステムはありますが、そもそも信徒の絶対数が少ないためお寺ほどカッチリと決められていません。

そういった事情からも、キリスト教の牧師は僧侶よりも動きやすいと言えると思います。

人間観(人権擁護/社会福祉)考え方の違い

『葬儀をちゃんとしたい』という気持ちというのは、いわゆる「人権」という感覚に基づくものです。

そしてこの「人権擁護」(社会福祉)というのは、言ってしまえば一神教的な考え方から生まれた意識なのです。

ルターやカルヴァンたちによって引きおこされた宗教改革は、人々の間に、地上 のいかなる権威にも拘束されない内的自由の自覚、万人平等の意識、世俗の職業活動への積極的態度などを培うことによって、近代の人間尊重の精神を生み出す一つ の基盤となったのである。

引用:平木幸二郎他『倫理』(東京書籍株式会社、2008)p.171

参考:<人権研究>人権概念の受容と日本プロテスタント・ キリスト教 : 内村鑑三のルター受容とルター批判

(細かく言うと「キリスト教は人権擁護的宗教だ」とシンプルに言い切れない面もありますが、現代日本のキリスト教会の多くはその意識を共有しているのでそう考えてくださってOKです。)

わたしが選ぶところの断食は、悪のなわをほどき、くびきのひもを解き、しえたげられる者を放ち去らせ、すべてのくびきを折るなどの事ではないか。 また飢えた者に、あなたのパンを分け与え、さすらえる貧しい者を、あなたの家に入れ、裸の者を見て、これを着せ、自分の骨肉に身を隠さないなどの事ではないか。そうすれば、あなたの光が暁のようにあらわれ出て、あなたは、すみやかにいやされ、あなたの義はあなたの前に行き、主の栄光はあなたのしんがりとなる。

引用:口語訳聖書「イザヤ書」58章6節~8節

そして、日本の仏教界はその教義の面から、「人権擁護」(社会福祉)についての役割をキリスト教ほど負っていないのだと思います。

これまで仏教は他宗教、特にキリスト教から、その歴史性ひいては社会性の欠落を指摘されることが多かった。それはとりもなおさず西洋的な意味における倫理性の欠落ということであったかもしれないが、「個のさとり」とか「個の救い」 を第一に強調して存続してきた仏教としては当然のことであり、またそれこそが仏教の 独自性でもあった。

引用:徳永道雄 『宗教と倫理』第1号/宗教とヒューマニズム

もちろん、日本の仏教寺院が「社会福祉を考えない、しない」のではありません。しかし、キリスト教と比べると少しだけ遠いところにあるのが現状なのだと思います。

そういった理由で、キリスト教の牧師は直葬に駆けつけてボランティアでお祈りをさせていただくという活動が可能なのです。

おとむらい牧師隊によせられているお声

高橋 時子様 (仮名・40代女性)

「おとむらい牧師隊」さんを知ったのは、奇しくも母が亡くなる5日前に、西日本新聞で取り上げられたのを、Facebookでたまたま見かけたことです。
母一人子一人で、周りに親類もおらず、経済的余裕もありませんでしたので、直葬を考えていたのですが、今まで大切に育ててくれた母をきちんと弔いたいとも思っていました。

新聞記事から、おとむらい牧師隊を立ち上げられた代表の方は、純粋に思いをもってこの活動を立ち上げられたことを知って、「このような方に関わっていただけたら母も私も本望だな」と感じましたし、母も私もクリスチャンではありませんが、叔母が敬虔なクリスチャンで、聖書には親しみをもっておりましたので、牧師様が来てくださることは、母も喜んでくれるだろうと感じておりました。

母が危篤になった際にお電話をいたしましたら、すぐに受付の優しそうな女性が担当のボランティアの方とつないでくださいました。残念ながら、臨終には間に合わなかったのですが、担当の方はずっと悲しみに暮れる私に寄り添ってくださり、おつながりのある葬儀社も紹介してつないでくださり、牧師の方を派遣してくださいました。
葬儀場に駆けつけてくださった牧師様は、母や私と初めて会ったにもかかわらず涙を流しながら、母のこれまでの人生をすべて肯定し、残した私の希望となるような、真に心のこもったお別れの言葉を述べてくださり、とても感動的なセレモニーとなりました。
火葬の際には、担当の方と牧師様だけではなく、最初に電話を受けて下さった受付の御夫婦も連れ添ってくださり、そのご夫婦がお骨の取り上げまで一緒に行ってくださいました。

もしこのとき一人きりだったら・・・と思うと、今でも感謝の気持ちがこみ上げてきます。

さらには、葬儀が終わった後も、母を亡くして天涯孤独になってしまった私がさみしくないようにと、受付の方と担当の方は時折声をかけてくださって、食事に行ったり、教会に行ったり、時にはお惣菜をつくってくださってわざわざ届けてくださったり、とても温かいつながりを持ってくださっています。

このつながりは、最後に母が残してくれた最高の贈り物として、これからも大切にしたいと思っています。

本当にありがとうございました。

そのほか、メディアにも取り上げていただきました。

「今」必要な方のもとへ参ります

葬儀はなぜするのか
人々が肉親の死に遭遇した場合、遺族は相矛盾する二つの要素が併存するアンビバレントな感情に包まれるといわれる。
(中略)
”哀惜の念”と”嫌悪感”という二つの相矛盾する感情に遺族たちはつつまれる。
(中略)
葬儀を行うということは、死という日々地上的な事象を一時的に日常的な空間に現出させ、さまざまな儀礼を通じて死んでいった人との生前の関係を再確認し、かつ死者との新たな関係を作り出していくための過程を経ることとはいえ、その後に日常生活の場をいかに復元していくか、ということまで含めることができるのかもしれない。

引用:藤井正雄著「戒名のはなし」p.65

全ての人には侵すことの出来ない尊厳があります。

そしてこれは、生きている間に何をしたか、どれだけ財産を持っていたかによって影響を受けるものではないとも信じています。

ぜひ、あなたの大切なご家族やあなたご自身のおとむらいを、私たちに行わせて下さい。宗旨を問わず、心をこめたおとむらいを致します。

NPO法人おとむらい牧師隊

この記事は「おとむらい牧師隊」サポーター上坂かすが が作成いたしました。